政治哲学史講義 ホッブズ講義 Ⅰ 「 ホッブズの世俗的道徳主義と社会契約の役割」
政治哲学史講義 ホッブズ講義 Ⅰ 「 ホッブズの世俗的道徳主義と社会契約の役割」
第1節 「序論」
政治哲学史講義 ホッブズ講義 Ⅰ 「 ホッブズの世俗的道徳主義と社会契約の役割」#69f2e96f0000000000e9b6d2
第2節 「ホッブズの世俗的道徳主義」
政治哲学史講義 ホッブズ講義 Ⅰ 「 ホッブズの世俗的道徳主義と社会契約の役割」#69f2e96f0000000000e9b6d3
第3節 「自然状態と社会契約の解釈」
政治哲学史講義 ホッブズ講義 Ⅰ 「 ホッブズの世俗的道徳主義と社会契約の役割」#69f2e96f0000000000e9b6d4
補遺A 「自然状態を不安定にする人間性の特徴(ハンドアウト)」
政治哲学史講義 ホッブズ講義 Ⅰ 「 ホッブズの世俗的道徳主義と社会契約の役割」#69f2e96f0000000000e9b6d5
補遺B
政治哲学史講義 ホッブズ講義 Ⅰ 「 ホッブズの世俗的道徳主義と社会契約の役割」#6a0ea3f700000000002943c9
補遺C 「寛大な本性の理念に関連した箇所」
政治哲学史講義 ホッブズ講義 Ⅰ 「 ホッブズの世俗的道徳主義と社会契約の役割」#69f2e96f0000000000e9b6d7
第1節 「序論」
1-1
〔ホッブズから講義を始める第一の理由〕
なぜ、政治哲学についての一連の講義をホッブズからはじめるのでしょうか。
もちろんそれは、ホッブズが社会契約論をはじめたからということではありません。その学説は古典ギリシアの人々にまで遡りますし、、その後、16世紀には、スアレス、ヴィットーリア、モリナといった後期スコラ学者たちによってめざましい発展をみました。ホッブズの時代までに、それはきわめて高度に発達した学説だったのです。
私の理由〔ロールズが政治哲学史の講義をホッブズから始める理由〕はこうです。私自身の見方によれば、また多くの人々の見方によれば、ホッブズ『リヴァイアサン』は英語で書かれた政治思想の最も偉大な、ただ一つの著作なのです。
そのように言うことによって、それが真理に最も接近しているとか、それが最も理に適っていると言いたいのではありません。むしろ私は、すべてをひっくるめて考えると、
—— その文体と言語、その視野と興味深く生き生きとした観察、その分析と原理の複雑な構造、ほとんど真実であるだろう、そしてまさに驚くべき可能性である、社会について考える仕方の、あの忌まわしいと私が思うその提示 ——
それらのすべてを合わせると、『リヴァイアサン』は私に対してまさしく圧倒的な印象を与えると言いたいのです。全体として理解すると、それは私たちの思考と感情にまさしく圧倒的で劇的な効果をもちうるのです。
もっと高く評価されるかもしれない著作家たちは他にもいます。ある点では、ホッブズの著作よりジョン・スチュアート・ミルの著作をもっと高く評価したいと私は思っていますが、ミルには『リヴァイアサン』と比べうるような単一の著作はありません。このすべてをひっくるめた効果を与えはじめるような何ものも、彼はなしていません。
ロックの『統治二論』第2篇は、いくつかの点でもっと理に適っており、もっと賢明であるかもしれませんし、正確で、真理により近づいていると考えられるかもしれません。しかし、やはりまた、それはホッブズのような政治的概念の提示の範囲と力を欠いています。
また、カントやマルクスのように深い印象を与える著作家たちは他にもいますが、彼らは英語で執筆していません。
英語では『リヴァイアサン』は最も深い印象を与えるただ一つの著作であると私は思います。したがって、政治哲学の講義をもちながらそれを読解しようと試みないのは、恥ずかしいことでしょう。
1-2
〔ホッブズから講義を始める第二の理由〕
ホッブズの著作の研究からはじめる第二の理由は、ホッブズとともに、またホッブズへの反響とともに、近代の道徳哲学・政治哲学は始まるとみなすことが有用であるということです。
『リヴァイアサン』をホッブズは、政治的大変動の時期に書きました。チャールズ1世を打ち倒したイギリス内乱(1642-1648) と1660年のチャールズ2世の戴冠にともなう王政復古との間の時期にあたる1651年に出版したのです。
ホッブズの著作は強い知的反響を呼び起こしました。批判者たちによって、キリスト教の信仰に対する近代の不信仰の主たる代表者であると彼は見なされました。その時代はキリスト教の時代であって、キリスト教の正統とみなされた教義〔カドワース〕は、多くのきわめて重要な、そして明確な境界線に沿って、ホッブズへの彼らの対立を見たのです。
table:図1
<No.> <カドワースと正統と見なされた教義> <ホッブズ>
1 有神論 無神論
2 二元論(精神と身体) 唯物論
3 自由意志 決定論
4 国家と社会についての団体概念 国家と社会についての個人主義的概念
5 永遠で普遍の道徳 相対主義と主観主義
6 道徳的感性と慈悲心をもちうる人格 合理的利己主義者であり慈悲心をもちえない人格
1-3
〔正統とみなされた教義からみたホッブズの教義〕
たとえば、正統とみなされた教義はもちろん有神論的見方をしたのに対して、ホッブズは無神論的であると彼らはとらえました。
有神論 vs 無神論
正統とみなされた教義は二元論的見方をして、魂と身体の区別をしたのに対して、ホッブズは唯物論者であると彼らはとらえました。
二元論 vs 唯物論
正統とみなされた教義はまた、意志の自由、魂と精神の自由を信じましたが、彼らはホッブズを、意志を一連の欲求、ないし、ある種の文化的変化を還元するであろう決定論者であるととらえました。
自由意志 vs 決定論
正統とみなされた教義はまた、人間社会について社団的な理論〔それを「有機的な」と呼ぶのは正しくないでしょう〕をもっていました。彼らは社会を本来的に人間の一側面としてとらえましたが、それに対して、ホッブズは個人主義的な社会概念をもっているとみなしました。彼はいまなお、むしろ過激に、個人主義的な社会概念をもっていると考えられています。
社団的 vs 個人主義的
正統とみなされた教義はまた、永遠で不変の道徳という見方に固執しました。つまり、わたしたちの理性によって、わたしたちがとらえ理解することのできる、神の理性にもとづく確かな道徳原理が存在し、それらの原理についてのただ一つだけの解釈があるということです。理性のみによって把握されうるという点において、道徳原理は幾何学の公理のようなものでした。他方で、ホッブズは相対主義的で主観主義的であり、完全に逆の見方であるとみなされました。
永遠不変の道徳観 vs 相対主義的かつ主観主義的な道徳観
最後の点を説明しましょう。正統とみなされた教義は、人間を慈悲心をもち、他者の善に関心をもつことができ、また自分自身のために永遠不変の道徳の原理から行動できるもの、と考えましたが、それに対してホッブズは、彼らが考えるところ、人間を心理学的に利己主義であり、自分自身の利益にのみ関心をもつもの、と仮定しました。
1-4
私はこのホッブズ像、彼の見方についてのこの解釈が正確であるとは考えませんが、
これこそホッブズの時代の人々が —— 多くの高い教養をもった人々でさえもが —— ホッブズが言っていること、とみなしたものであるがゆえに、それを取り上げるのです。
それは、なぜ彼があれほど厳しく攻撃され、恐れられもしたのか、を説明します。ある仲間社会で、誰かがあなたをホッブズ主義者とみなしたとしたら、個人的な侮辱問題になったのです。
それは、1950年あたりのこの国〔アメリカ合衆国〕で、共産主義者と考えられることから、わが身を守る必要を人々が感じたのと同じように、多くの人がそうした必要を感じた非難だったのです。
ロックは、ニュートンが彼をホッブズ主義者とみなしていると考えましたが、それは彼らが友人になるならその前に解決しておかなければならいようようなことでした。他人からあなたがこの情報によって評価されることは、きわめて深刻な問題だったのです。
1-5
ホッブズのすぐ後に、彼に対する反応に二つの流れがあることがわかってくるでしょう。
〔キリスト教道徳哲学者たちによる反応の流れ〕
一つは、教会に属していたか、あるいは教会に共鳴していたキリスト教道徳哲学者たちによる反応です。おそらく彼らの中で最も重要であったのは、カドワースとクラークとバトラーでした。彼らはたとえば次のようなホッブズの主要な見方と考えたものを攻撃しました。
1. 彼の想定された心理学的、かつ倫理的な利己主義
2. 彼の相対主義と主観主義、および自由意志の否定
3. そして、彼の教義の帰結と彼らのみなしたもの、すなわち、政治的権威は優越する力によって正当化されるか、そうでなければ、そうした力〔政治的権威は優越する力〕に直面したときにつくられる合意によって正当化される。
彼ら〔キリスト教道徳哲学者〕はまた、政治的権威が社会契約のようなものに基づきうる、という思想を拒否しました。
1-6
〔功利主義者たちによる反応の流れ〕
反応のもう一つの流れは、ヒューム、ベンサム、ハチスン、アダム・スミス、そしてその後の功利主義の流れでした。
彼らは、正統とみなされた教義にもとづく理由からホッブズと意見を異にしたわけではなく、概して言えば、ハチスンを除けば、世俗的な立場をとりました。功利主義者たちはホッブズの利己主義を攻撃しようとしたのです。
彼ら〔功利主義者〕は、功用原理〔効用原理〕は客観的な道徳原理であると主張しようとして、ホッブズの想定された主観主義ないし相対主義をそのように攻撃しようとしたのです。
そして彼らはまた、政治的権威の根拠の間の対立を解決し、その根拠を正当化し説明することのできる原理として功用原理〔効用原理〕を擁護しました。ホッブズの一つの解釈の仕方は、政治的義務と政治的権威を〔功利主義に〕優越する力に基礎づけたというものでした。
ここでも私は、これらのどれかがホッブズが実際に主張したことであると言っているのではなく、それらが、彼が主張していると広くみなされていたことであると言っているのです。
1-7
このように、ホッブズは当時のあらゆる立場の側 —— 正統派と非正統派 —— から攻撃されましたが、
正統派:キリスト教の正統とみなされた教義、キリスト教道徳哲学
非正統派:功利主義
『リヴァイアサン』はとてつもない作品であるがために、ある種の反応が始まることになりました。彼の思想体系はそれに照らして、人がどこに立つかを決定しなければならないもの、となったのです。
こうした状況を考えると、ホッブズとホッブズに対する反応を、近代英国の政治哲学・道徳哲学の始まりと考えることは有益なことなのです。
第2節 「ホッブズの世俗的道徳主義」
2-1
この作品における本質的な点のいくつかを論じる時間をもつために、私が「ホッブズの世俗的道徳体系」と呼ぶものに焦点を当てましょう。
いくつかの事柄を除外することになりますが、そうする理由を説明します。
〔無視されるいくつかの事柄 その1: 「神学的仮定」〕
私が無視するであろう第一の事柄は、ホッブズの神学的な仮定です。
ホッブズはしばしば、あたかも自分はキリスト教の信者であるかのように語ります。皆さんはこの作品を読んで、なぜそれを否定した人たちがいたのかを理解するでしょうが、私は、ある意味において彼がキリスト教の信者であることを疑いませんし、否定しません。いずれにせよ、それを否定した人たちは、彼が言い、また信じさえもしたことを、はたして彼は何らかの正統とみなされた教義の意味において言うことができるかどうかに疑問をもったのです。
そこでこれらの正統とみなされた神学的仮定を脇に置いて、この本には世俗的な政治的・道徳的体系が存在すると仮定します。
この世俗的な政治的・道徳的体系は、これらの神学的仮定が脇に置かれても、その思想構造とその諸原理の内容に関して完全に理解可能です。言い換えると、わたしたちは、その世俗的体系が何であるかを理解するのにこれらの〔神学的〕仮定を考慮に入れる必要はないのです。たしかにこれらの〔神学的〕仮定を脇に置くことができるからこそ、あるいは、そうであることを理由の一つとして、彼の教義は彼の時代に正統とみなされた教義に対する攻撃であったのです。
正統とみなされた思想においては、政治的・道徳的思想体系を理解する際に、宗教はある本質的な役割を演じなければならなかったのです。もしそれがそうでなかったなら、そのときにはそのこと自体が面倒な問題なのです。
2-2
正統とみなされた思想である宗教は、ホッブズの説明のなかではいかなる本質的な役割も演じてはいません。
そこで私は、ホッブズの用いている諸概念、たとえば自然権、自然法、自然状態などの概念は、すべて神学的背景から切り離して定義され、説明されることができると信じます。
また、道徳体系の内容についても同様です。ここで内容とは、その諸原理が実際に言っていることを意味しています。このことは、正しい理性が私たちになすように命じる自然法の内容や、正義や名誉などのような道徳的徳の内容は、神学的仮定に訴えることなくすべて説明され、世俗的体系のなかですべて理解されうることを意味します。
2-3
ホッブズは自然法を、「それによって、人が自らの生命を破壊するようなことや、その保存の手段を取り去るようなことを成すのを禁じられる、理性によって発見される教え、ないし一般規則である」(『リヴァイアサン』第14章)と考えています。
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第14章「第一と第二の自然法について、および契約について」
pp.216-
《自然の権利とは何か》
著作者たちがふつうに自然の権利 〔自然権〕Right of Nature とは、各人が、彼自身の自然、すなわち、
彼自身の生命を維持するために、彼自身の意志するとおりに、彼自身の力を使用することについて、各人が持っている自由であり、したがって、彼自身の判断力 Judgement と理性 Reason において、彼がそれに対する最適の手段と考えるであろうような、どんなことでも行なう自由である。
《自由とは何か》
自由とは、この言葉の意味によれば、外的障碍が存在しないことだと理解される。この障碍はしばしば、人間が彼のしたいことをする力の、一部を取り去るかもしれないが、彼が自分に残された力を、彼の判断力と理性が彼に指示するであろうように、使用するのを妨げることはできない。
《自然の法とは何か》
自然の法 Law of Nature 〔自然法 Lex Naturalis 〕とは、理性によって発見された戒律、すなわち一般法則であって、それによって人は、かれの生命にとって破壊的であること、あるいはそれを維持する手段を除去するようなことを、おこなうのを禁じられ、また、それをもっともよく維持しうるとかれが考えることを、回避することを禁じられる。
〈以下、略〉
これらの教えは、広く守られるときに平和と和合を達成する手段となり、「群衆」の「保護」と「防衛」に必要なものとなるのです。(『リヴァイアサン』第15章)
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第15章「その他の自然法について」
pp.254-
《自然法は、良心についてつね義務づけるが、結果については、安全保障があるときにのみ義務づける》
自然法は内面の法廷において義務づける。いいかえれば、それらはそれらがおこなわれるべきだという意欲をもつように拘束する。
しかし、外面の法廷において、すなわちそれらを行為にうつすことには、つねに拘束するのではない。なぜなら、ある人が謙虚で従順であって、彼のすべての約束を、他の誰もが履行しない時と所において、履行するとすれば、それは彼自身を他の人びとの餌食にし、彼自身の確実な破滅を招くだけであって、そのことは自然の保存を目指すすべての自然法の基礎に反するのだからである。
さらにまた、他の人びとが彼に対しておなじ自然法を遵守するという十分な保障がありながら、自分ではそれらを遵守しない人は、平和ではなく戦争を求めるのであり、したがって暴力による彼の自然の破滅を求めるのである。
そして、内面の法廷において拘束する諸法はすべて、その法に反する行為によってのみならず、それに一致した行為によっても、もし人がそれに反して考えるならば、破棄されうる。なぜならこの場合は、彼の行為は法と一致しているとしても、彼の目的は法に反していたのであり、それは、義務が内面の法廷におけるものであるところでは、破棄なのだからである。
自然法はすべて、神学的仮定に言及することなく理解されます。しかしながら、このことは、わたしたちがホッブズの世俗的な枠組み〔スキーム〕に神学的仮定を加えることはできないということを意味しません。そして、そのような仮定が加えられるとき、それらは、この世俗的な体系のある部分を異なった仕方で描くように、わたしたちを導くでしょう。
たとえばホッブズは、世俗的体系において〔これは私(ロールズ)の用語です〕自然法は正確に言えば「理性の命令」であり、わたしたちの保存と社会の平和のために必要なものについての結論、ないし「定理」であると言っています。
正確に言えば、それらを、わたしたちに対する正統な権威を権利としてもつ神の命令として考えるときにのみ「法」です。(『リヴァイアサン』第15章)
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第15章「その他の自然法について」
pp.256-
《これらの法についての科学が、真実の道徳哲学である》
〈略〉
これらの理性の指示〔理性の命令〕を、人びとは法という名で呼ぶのがつねであるが、適切ではない。なぜなら、それらは、何が彼ら自身の保存と防衛に役立つかについての諸結論または諸定理であり、それに対して法とは、適切にいえば、権利によって他の人びとを支配するものの言葉なのだからである。
しかしそれでも、もしわれわれが同じ諸定理を、権利によってすべてのものを支配する神の言葉のなかに述べられたものとして考察するならば、その場合には、それらは法と呼ばれるのが適切である。
しかし、決定的に重要な点は次のことにあります。これらの理性の命令を神の法として考えることは、けっして、それらの内容 —— つまりそれらがわたしたちになすように命じること —— を変えるものではなく、それらは依然として、わたしたちがなすべきことについて、それらが前に言ったことと正確に同じことを言う、ということです。それは、徳の内容も変えません
またそれらを神の法と考えることは、わたしたちがそれらに従うように義務づける、その仕方も変えません。わたしたちはすでに、正しい理性によって〔少なくとも内なる法廷においては〕それらに従うよう義務づけられており、正義と信約することとは自然的徳なのです。(注釈 3)
(注釈 3)
『リヴァイアサン』第15章
「自然法は内なる法廷において義務づける、すなわち、それらは、それらが行われることを欲するように義務づける。しかし外なる法廷においては、つまり、それらを行為に移すようには、必ずしもつねに義務づけない。」
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第15章「その他の自然法について」
pp.254-
《自然法は、良心についてつね義務づけるが、結果については、安全保障があるときにのみ義務づける》
自然法は、内面の法廷において義務づける。いいかえれば、それらは、それらがおこなわれるべきだという意欲をもつように、拘束する。
しかし、外面の法廷において、すなわちそれらを行為にうつすことには、つねに拘束するのではない。なぜなら、ある人が謙虚で従順であって、彼のすべての約束を、他の誰もが履行しない時と所において、履行するとすれば、それは彼自身を他の人びとの餌食にし、彼自身の確実な破滅を招くだけであって、そのことは自然の保存を目指すすべての自然法の基礎に反するのだからである。
〈略〉
神の法として、理性の命令はとりわけ強力な制裁を獲得するにすぎません。(『リヴァイアサン』第31章)
岩波文庫『リヴァイアサン』第2巻 第2部 「コモンウェルスについて」第31章「自然による王国について」
pp.301-
《自然的処罰》
〈略〉
この世における人間の行為はすべて、諸帰結の非常に長い連鎖のはじまりであり、どのような人間的先見も、その終わりまでの展望を人に与えるには、十分な高さを持たないほどなのである。そして、この連鎖においては、愉快な事件と不愉快な事件がいっしょに繋がれていて、自分の愉快のためになにかをしようとする者は、それに結合するすべての苦痛を受けることを引き受けなければならないようになっている。そしてこれらの苦痛は、善よりも多くの害の始まりである諸行為の自然的処罰なのである。
そこで次のことが生じてくる。すなわち、不節制は病気によって自然的に処罰され、性急さは機会損失によって、不正義は敵の暴力によって、高慢は破滅によって、臆病は抑圧によって、王侯たちの怠惰な統治は反乱によって、反乱は殺戮によって、そうされる。
というのは、処罰は諸法の破棄の帰結だということをみれば、自然的処罰は、自然の諸法の破棄の自然的帰結であるにちがいなく、したがって、それらの恣意的でなく自然的な結果として、それらにともなうのである。
言い換えると、なぜそれらに従わなければならないのかについて、もう一つの強力で強制力のある理由、すなわち神の罰の威嚇が存在することになるのですが、その制裁は、含まれる内容や概念には影響しないのです。
2-4
背景となっている神学的体系は、神学的立場からわたしたちの救済に必要なものが、社会の平和と和合に必要なものについての理性の命令と異なるとき、またいくつかの点で衝突するかもしれないとき、そのようなときにのみ、ホッブズの世俗的枠組みの内容と構造を変えることになるでしょう。
もし神学的見方が、救われるために自然法の教え、つまり理性の命令と衝突するあることをなさなければならないというのであれば、そのときにはあなたは葛藤をいだくことになるでしょう。
しかし、ホッブズはこのようには信じていなかったと私〔ロールズ〕は思います。彼は、集団としての人間の保存に必要なものについての定理とみなされる理性の命令と相容れない、どのような宗教的見方も迷信であり、非合理であると言うでしょう。
『リヴァイアサン』第12章において彼は宗教を論じていますが、ここで彼は、古代人の間でのコモンウェルス〔ホッブズにおいては国家 state と同義〕の最初の設立者や立法者たちが、
1. 社会の平和と統一のために必要なことがまた神を喜ばせるものであるということ
2. 法によって禁じられるその同じことが神を怒らせるものであること
を、ひろく人々に信じさせるためにいかに苦労したかに言及しています。ホッブズがこのやり方を是認し、これが彼らのなすべきであったこと、であると考えているのは明らかです。
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第12章「宗教について」
pp.181-
《真の宗教と神の王国の法とは、同じものである》
しかし、神自身が超自然的な啓示によって、宗教を植え付けたところでは、彼はまた、彼自身に対して特別の王国をつくり、彼自身に対してだけでなく相互に対しても、態度についての法を与えたのであり、そのことによって、神の王国では、政策と市民法とは、宗教の一部なのである。
そして、したがって、現世的支配と霊的支配との区別は、そこには存在の余地がない。たしかに、神は大地全体の王ではあるが、それでも彼は特別の選ばれた国民の王でありうる。なぜなら、そこには、全軍の総指揮をもつものが、とくに彼自身の連隊や中隊をもつということと同じく、矛盾はないのだからである。神は彼の力によって、大地全体の王であるが、彼の選ばれた人民については、彼は信約 Covenant よる王なのである。
《第35節》
しかし、自然と信約の双方による神の王国について、さらに詳しく語るために、私は、以下の論述において、別の場所を定めておいた。
岩波文庫『リヴァイアサン』第3巻 第3部 「キリスト教のコモンウェルスについて」第35章「聖書における、神の王国、神聖な、神にささげられた、および聖礼の意味について」
2-5
後にホッブズは、正義は存在しないと信じているいわゆる愚か者に対して回答を与えています。(『リヴァイアサン』第15章)
他の多くのことのなかでも、天国の確かで永続的な至福は、〔たとえば異教徒とは〕信約を守らないことによって得られるかもしれないと彼は愚か者に言わせています〔その時代には、わたしたちは異教徒との信約を守るよう義務づけられないこと、彼らは例外であることは、普通の習慣でした〕。
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第15章「その他の自然法について」
pp.237-
《正義は理性に反しない》
愚か者が心のなかで、正義というようなものはないのだといい(訳注 2)、ときには口に出しても言った。
(訳注 2)
p.257
聖書 詩編 14:1
「愚かな者は、彼の心のなかで、神というものはないといった。彼らは腐敗している」
https://www.bible.com/bible/1819/psa.14.1
詩編 14:1 新共同訳
「神を知らぬ者は心に言う 「神などない」と。 人々は腐敗している。 忌むべき行いをする。 善を行う者はいない。」
その場合、彼はまじめに次のように主張したのである。すなわち、各人の保存と満足は、彼自身の配慮に委ねられているのだから、各人がそれに役立つと考えることを、してはならないという理由はあり得ず、したがってまた、信約を結んでも結ばなくても、守っても守らなくても、それがかれの便益〔ベネフィット〕に役立つならば、理性に反しない、というのである。
ホッブズは、そうした考えは軽薄であると答えています。わたしたちの信約を尊重する以外に、救済を得る方法が存在することは想像できないと彼は言います。(『リヴァイアサン』第15章)
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第15章「その他の自然法について」
p.241
《正義は理性に反しない》
〈前略〉
なんらかのやり方で、確実で永遠の天上の至福を獲得するという例についていえば、それはたいした問題ではない。考えられるやり方は一つしかないからであって、それは信約を破棄することではなくて、〔信約を〕 守ることである。
そして続けて彼は、異教徒や他の人々との信約は拘束力をもたないと考える人々、また理性の命令 —— それが自然法ですが —— は宗教目的のために破棄されうると考える人々の見方を否定します。(『リヴァイアサン』第15章)
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第15章「その他の自然法について」
p.242
《信約は、それが結ばれた相手の人物の悪徳によって、解除されるのではない》
他の人びとは、誠実の遵守が自然法であることを認めるが、それにも関わらず、異端者たち、および他の人びとに対する信約を履行しないのが習慣である人びとのような、一定の人については例外を設けるのである。
だがこれもまた理性に反する。なぜなら、もしある人物のなにかの欠陥が、結ばれた我々の信約を解除するのに十分であるとすれば、同じことは当然、その信約を結ぶのを妨げるにも十分であったに違いないからである。
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第15章「その他の自然法について」
pp.241-
《正義は理性に反しない》
〈前略〉
ある人びとは、これより先に進んで、自然法を、地上での人間の生命の維持に役立つ規則としてではなく、死後の永遠の至福に到達するのに役立つ規則として考えようとする。
彼らは、信約の破棄がそれに役立つかもしれないし、したがって正しく合理的であるかもしれないと考えるのである〔それは、彼ら自身の同意によって彼らの上に設立された主権者権力を、殺したり、廃位したり、それに反乱したりすることを、値打ちのある仕事だと考えるような人びとである〕。
しかし、人間の死後の状態については、自然的知識はなにもないし、そのときに誠実の破棄に対して与えられる報酬については、さらにないのであって、
ただ、それを超自然的に知っているとか、あるいは、それを超自然的に知っている他人を知っている人びとを知っているとかいう、他の人びとのいうことにもとづく信仰があるにすぎないのであるから、誠実の破棄は、理性または自然の戒律とは、呼ばれえないのである。
ホッブズにとって、そのような場合に、信約の不履行が正当化されることはないでしょう。
このようにして、わたしたちの救済の探求は、彼の見方ではいかなる仕方でも、理性の命令とみなされる自然法の内容を変えることはないのです。
神学的仮定は、理性の命令に神の制裁を付け加えることによってこの世俗的な体系を強化するかもしれませんし、理性の命令が「法」と呼ばれるように、それを幾分異なった仕方で描くことを可能にするかもしれませんが、そうした仮定は、概念の基本構造やその諸原理、あるいはそれらが要求する事柄の内容を変えることはありません。要するに、そうした根拠に立ってこそ、わたしたちは神学的仮定を脇へ置くことができると私は提唱するのです。
2-6
〔無視されるいくつかの事柄 その2: 「唯物論」〕
私が脇に置こうとしているホッブズの見方のもう一つの側面は、彼のいわゆる唯物論です。
私は、これが彼の世俗的体系と私が呼んでいるものの内容に何らかの影響をもつとは信じません。ホッブズの心理学は主として常識の観察と、トゥキュディデス、アリストテレス、それにプラトンの古典を読むことから得られたものです。彼の政治思想、つまり人間性についての彼の概念は、おそらくそこで形成されたのです。
それが実際に唯物論の機械論的原理、いわゆる科学の方法にもとづいて考え抜かれて得られたといういかなる形跡もありません。ときおりそれに言及されることがあるとしても、実際にそれは、人間性や情念などといったものについての彼の説明に影響を与えなかったのです。(注釈 4)
(注釈 4)
「彼の政治的教義の全体は —— 彼の哲学の根本原理から考えぬかれたという形跡はほとんどなく —— それはその主要な方向を、彼がなお人々と風習についての観察者であって、まだ機械論哲学者ではなかったときに定めたのである」( Geroge Croom Robertson "Hobbes" 1886 )
(私見:ホッブズの唯物論と機械論)
逆に言えば、ホッブズの思想、教義には唯物論〔と機械論〕が関連しているということで、
おそらくロールズは「ホッブズ講義」をシンプルにするために、その概念をここから大胆に省いているのだと思われる。
たぶんおそらく、この『政治哲学史講義』でロールズが示す、社会契約論の代表者〔ホッブズ、ロック、ルソー〕の教義を説明するためには、「唯物論」は冗長なのだろう。
関係あるかもないかも
スティーヴン・シェイピン、サイモン・シャッファー『 リヴァイアサンと空気ポンプ』
リチャード・タック 『眠れる主権者』
2-7
わたしたちは、ホッブズの唯物論、それに因果関係を説明する機械論的原理が存在するという考えが、彼に、分析的方法としての社会契約論へのより大きな確信を与えたことは認めてもよいでしょう。彼は、それら二つが同時に存在すると感じていたかもしれません。
たとえば『リヴァイアサン』とほとんど同じ見方を提示していて、それよりも早く、それほど完全ではなく、それほど寝られていない著作である『市民論』において、彼は、「市民政府〔世俗的統治を意味する〕のまさしく材料」についての議論から出発し、次いでその生成と形式と正義の最初のはじまりの議論に進み、そして「すべてのものはその構成的原因から最もよく理解される」という文句を付け加えます。
そこで市民社会〔世俗 = 政治社会を意味するので、以下「政治社会」と訳す〕、つまり偉大なリヴァイアサンを理解するためには、わたしたちはそれを個別に取り上げ、その個々の要素、ないしその材料 —— それは人間です —— に分けて、これらの要素をあたかも分解されたかのようにみなさなければなりません。こうすることによって、人間の性質は何であるかを、またいかなる仕方でそれらの性質はわたしたちを政治社会で暮らすのに相応しいものにするのか、あるいは、相応しくないものにするのか、を理解できるようになり、また、もしよく基礎づけられた国家を形成すべきならば、どのようにして人々の間で合意すべきか、を理解できるようになります。(ホッブズ『市民論』)
京都大学学術出版会『市民論』序文
pp.17-
〔本書で論じるテーマの有用性については以上のとおりであるが、次に〕論じ方についてはどうかというと、慣例どおりの述べ方は明白ではあるがそれだけでは不十分であり、国家の素材そのものから始めて次に国家の発生と形態、ならびに〔法的〕正義の最初の起源へと進まなければならない、と私は考えた。
なぜなら、各々の事物はやはりそれを構成しているものから認識されるのが最善だからであって、その理由は次の点にある。
すなわち、自動式の時計やそのほかのもう少し複雑な機械の場合、各々の部分や回転板の働きがどのようなものであるかは、分解して諸部分の材質や形態や運動を別々に調べなければ知ることはできないが、それと同様に、国家の権利や市民の義務に関して探求するためには、なるほど国家をほんとうに解体する必要はないが、しかし少なくともそれをあたかも解体したかのようにして考察する必要があるからである。
これはつまり、人間の本性がどのようなものであるか、どのようなものから国家を組み立てるのが適切または不適切であるか、また融合しようと欲する人々はどのような仕方で互いに統合されなければならないかを、正しく理解する必要があるということである。
政治社会を、あたかも分解されたかのようにみなすならば、あるいは、その要素に分けたならば、自然状態の観念に導かれる、というのが彼の考えです。そこで彼は、自然状態の観念をもつと、次に、よく基礎づけられた国家の統一性を理解する一つの方法として社会契約を示唆します。
因果的唯物論の機械論的概念や原理は、この一連の思考を補強したかもしれませんし、ある意味でこうした思想をもつように彼を促しさえしたかもしれません。しかし、明らかに、そうした機械論的基礎は本質的ではなく、これらの思想の内容には影響していません。自然状態と社会契約の思想は、それら自体で存立可能なのです。
そして、機械論と唯物論を拒否した多くの著作がこれらの概念を支持しました。
2-8
要するに、私はホッブズの世俗的な道徳体系を、神学的仮定と機械論〔唯物論〕の諸原理に依存せず本質的に独立したものとして論じようとしているのです。
第3節 「自然状態と社会契約の解釈」
3-1
〔「自然状態」について〕
どのように社会契約を解釈しうるかという問題を取り上げる前に、ホッブズの自然状態についての説明からはじめさせてください。
わたしたちは、自然状態を実際の状態として解釈するべきではなく、社会契約を実際になされる合意として解釈すべきでもありません。たしかに、ホッブズは自然状態のようなものが実際にある時点で実在していると述べています(『リヴァイアサン』第13章)。
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第13章「人間の至福と悲惨に関するかれらの自然状態について」
見出しより
p.207
《人びとは生まれながら平等である》
p.208
《平等から不信が生じる》
p.209
《不信から戦争が生じる》
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第13章「人間の至福と悲惨に関するかれらの自然状態について」
pp.210-
《諸政治国家(訳注 1)の外には、各人の各人に対する戦争が常に存在する》
これによってあきらかなのは、人びとが、彼ら全てを威圧しておく共通の権力なしに、生活しているときには、彼らは戦争と呼ばれる状態にあり、そういう戦争は、各人の各人に対する戦争である、ということである。
すなわち、戦争は、たんに戦闘あるいは闘争行為にあるのではなく、戦闘によって争うという意志が十分に知られている一連の時間にある。
戦争の本性においては、天候の本性においてと同じく、時間の概念が考慮されるべきである。というのは不良な天候の本性が、ひと降りかふた降りの雨にあるのではなく、多くの日を一緒にしたそれへの傾向にあるのと同様に、戦争の本性も、実際の闘争にあるのではなく、その反対に向かう、なんの保障もないときの、全体における闘争へのあきらかな志向にあるのだからである。
そのほかの全ての時は、平和である。
(訳注 1)
諸政治国家 Civil States
社会状態あるいは市民状態と訳しても良いのだが、ここでは特に複数になっているので、政治国家とした。政治権力が樹立されている国家のことを指すためホッブズにおいては、社会状態、市民状態と同じことを意味する。
(私見: ロールズにおいては「政治社会」)
ですから、その意味においては自然状態は存在します。
しかし、政治社会とその政府がどのように生じたかについての歴史的な記述や説明などを提供することに、ホッブズは関心をもっていなかったと私は思います。彼の社会契約論は、リヴァイアサンの起源、つまりどのように何が生じてきたかを説明するものとしてではなく、むしろ、わたしたちの政治的義務をよりよく理解することができ、また実効的な主権者が存在するとき、そうした主権者を支持する理由をよりよく理解することができるように、リヴァイアサンについての「哲学知識」を提供する試みとして見るのがいちばん適切なのです。
3-2
〔哲学的知識とはなにか〕
『リヴァイアサン』の終わり近く、ホッブズは、
「哲学は —— 人間の生活が必要とするような結果を、材料が許すかぎりにおいて、また人間の力が許すかぎりにおいて、産出することができるための、何らかのものの生成の様態から、その特性への、あるいはその特性から、その生成の、ある可能な方法への推論によって獲得される知識である」( 『リヴァイアサン』第46章 )と述べています。
〔哲学的知識とは、生成から特性への、あるいは特性から生成への、可能な方法についての推論によって獲得される知識である〕
岩波文庫『リヴァイアサン』第4巻 第4部 「暗黒の王国」第46章「空虚な哲学および架空の言い伝えから生じた暗黒について」
p.105
《哲学とはなにか》
哲学とは、「ある物事の生成の仕方から、その諸固有性にいたり、あるいは、その諸固有性からそのものの生成の、ある可能的な経路にいたる、推理によって獲得された知識であり、それは、物質〔材料〕と人間の力が許すかぎり、人間生活が必要とするような諸効果を生み出しうることを目指しているものである」と理解される。
こうして幾何学者は、諸図形の構成から、それの多くの固有性を見出し、そして推理によって、その諸固有性から、諸図形を構成する新しい筋道を見出し、ついには、水陸の測量ができるようになり、さらに無限の他の用途に役立つのである。同様に天文学者は、天のさまざまな季節の、諸原因を見出し、そうすることによって彼は、時間を計るのである。他の諸科学に関しても、同様である。
ここで考えられているのは、あるものについて、それがいま現にそうである知っているその属性を、その諸部分からどのようにして生成することができるかを理解するとき、わたしたちは、そのあるものについての哲学的知識をもつことになるであろうということです。
『リヴァイアサン』においてホッブズが目指しているのは、その意味において、政治社会についての哲学的知識を提供することにある、ということになるでしょう。
3-3
〔社会契約の第一の考え方:〕
このことを達成するためにホッブズは、社会をあたかもバラバラにされたかのように、つまりその要素である自然状態における人間に分解されたかのように考察します。
そしてそのとき、これらの人間の生来の傾向や特徴、つまり彼らの行動を基礎づける生まれつきの衝動、ないし情念を仮定したとき、自然状態はどのような状態であるのか、また彼らはその状態においてどのように振る舞うのかについて詳細に吟味します。そこでの狙いは、彼が記述したような自然状態を仮定したとき、どのようにして政治社会がその政府とともに生成され、生じさせられうるか、を知ることです。
もし政治社会と主権者は、自然状態からどのように生起しうるかを説明することができるなら、そのときそれは、ホッブズの意味において、政治社会についての哲学的知識をわたしたちに与えるのです。
つまり、わたしたちが政治社会について理解するのは、その認知され観察されうる特性を説明することになる、その生成の可能な様式、を理解するときなのです。この解釈にもとづくと、政治社会が生み出されることができたであろう方法、〔つまり、それが実際にどのように生みだされたか、ではなく、それがどのように生みだされることができたであろうか、〕を社会契約の観念は提示しているのです。
〔社会契約の第一の考え方:〕
〔社会契約は、政治社会が生みだされることが できたであろう方法を提示する〕
3-4
このように、〔もう一度繰り返しますが、〕意図されているのは、わたしたちは社会契約を、自然状態がどのように政治社会に転換されうるであろうかを考える一つの方法とみなすべきである、ということです。
〔社会契約は、自然状態がどのように政治社会に転換されうるであろうか、を考える方法〕
自然状態における合理的な人間はなぜ主権者がいま実際にもっているような権力をもつことに合意するのであろうか、ということを知ることによって、国家、すなわち偉大なリヴァイアサンの現在の特性が説明され、なぜ主権者はそのような権力をもつべきかが理解されます。
これが、国家の特性をその生成の過程からわたしたちが理解すべき仕方であり、また、その権力がなぜいまあるようなものであるかを、わたしたちが理解すべき仕方であるのです。
ホッブズの哲学的知識の定義にもとづくならば、それはそのとき、国家の、あるいは偉大なリヴァイアサンの、本質についての哲学的知識を提供します。
これは、現在存在している哲学、ないし哲学的知識の定義に比べてはるかに広い定義です。そのとき、それは科学、あるいはそれが当時、呼ばれていたように呼べば「自然哲学」をカバーしていました。
3-5
では、ホッブズの社会契約についての第二の考え方を検討しましょう。
『リヴァイアサン』の第13章においてホッブズは、自然状態はけっして存在しなかったという反論の可能性を認めます。
(私見:ホッブズは 自然状態 = 戦争状態 であると考えている)
「そのような時代も、このような戦争の状態も存在しなかった」
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第13章「人間の至福と悲惨に関するかれらの自然状態について」
pp.212-
《そのような戦争の諸不便》
〈前略〉
このような戦争の時代も状態も、けっして存在しなかったと、おそらく考えられるかもしれない。
これに対して、君主や主権者たちはお互いに関して自然状態にあると彼は答えます。
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第13章「人間の至福と悲惨に関するかれらの自然状態について」
pp.213-
《そのような戦争の諸不便》
〈前略〉
しかし、個々の人びとがたがいに戦争状態であったことが、けっしてなかったにしても、それでも、すべての時代に、王たち、および主権者の権威を持った諸人格は、彼らの独立性のゆえに、たぎる嫉妬のうちにあり、剣闘士の状態と姿勢にあって、たがいに彼らの武器を突きつけて、目を注いでいる。彼らの王国にある彼らの要塞や守備兵や鉄砲と、彼らの隣国に対する絶えざるスパイが、そうであって、これは戦争の姿勢である。しかし、彼らはそうすることによって、彼らの臣民の勤労を維持しているのであるから、個々の人びとの自由にともなう悲惨は、そこからは生じてこないのである。
そのうえ、自然状態は、いまもし人々を恐れさせておく主権者の権威が存在しなければ生じるであろう状態である、ということで、自分の議論にとっては十分であると彼は指摘します。(注釈 6)
(注釈 6)
『リヴァイアサン』第13章
「そうした時代や、このような戦争状態はけっして存在しなかったという疑問が出されるかもしれない。私は、世界中で一般的にそうであったのではけっしてないが、人々がいまそのように生きている多くのところが存在すると信じている」
「しかしながら、かつて平和的な統治のもとで生きていた人々が、内乱において陥るのがつねであるような生活の仕方によって、恐怖させる共通の権力が存在しないならば、どのような生活の仕方が存在することになるのかが理解されるであろう」
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第13章「人間の至福と悲惨に関するかれらの自然状態について」
pp.212-
《そのような戦争の諸不便》
〈前略〉
このような戦争の時代も状態も、けっして存在しなかったと、おそらく考えられるかもしれない。
また私は、全世界にわたって普遍的にそうだったのでは、決してないと信じる。
しかし、彼らが今日、そのように生活している、多くの地方があるのだ。すなわち、アメリカの多くの地方における野蛮人は、自然の情欲にもとづいて和合する小家族の統治をのぞけば、まったく統治をもたず、今日でも私が前に言ったような残忍なやり方で生活している。
いずれにしても、恐怖すべき共通の権力がないところでは、生活の様式がどういったものになるかということは、以前に平和な統治のもとに暮らしていた人びとが、内乱において陥るのを常とする生活の様式から、見て取ることができよう。
このように、自然状態とは、もし主権の有効な行使が損なわれたならば、つねに存在することになるであろう状態です。そのように捉えられたとき、自然状態は、「基礎のしっかりした」社会ではとてもありそうもない〔起こりそうもない〕とはいえ、紛争と内乱へと退行する、つねに現前する可能性なのです。
さて、自然状態とは、実際には戦争状態ですから、自然状態の絶えざる可能性は、すべての人に、生存し続けるために実効的な主権者を望む十分な理由を提供します。わたしたちはみな、現在の取り決めや制度の崩壊を恐れる強い根拠をもっていて、それらを支持する十分な理由をすべての人に与えているとホッブズは考えるのです。このようにして、この解釈にもとづくならば、自然状態は、事柄の何らかの過去の状態であるのでも、あるいは確かに何らかの実際の状態であるのもなく、避けられるべき、いつも現前する可能性なのです。
3-6
社会契約についての第二の解釈は次のようなものです。
すべての人が完全に合理的で、ホッブズが描いているような人間の状態を理解していると想定してください。また、実効的な主権者が現在の取り決めや制度を維持するために必要な権力をもって、いま存在しているとも想定してみましょう。
そのときホッブズは、すべての人は、自分自身の自己保存と基本的な利益にもとづいて、主権者がその権力を永久に行使しつづけるように主権者に授権する〔権威づける〕信約に加わる十分な理由をもっていると考えます。
そのような信約に加わることは、すべての人にとって、そうすることが合理的なことなのです。それは、各自にとって合理的で、かつ、すべての人にとって合理的であるのですから、〔そう言ってよければ〕集合的に合理的なのです。
3-7
このような仕方で考えたとき、社会契約を自然状態において結ばれるもの、と見なす必要はありません。
したがって、社会契約が、自然状態を市民状態に転換するのに十分であるのかどうか、と考える必要はありません〔たとえば、どうして人々の約束は遵守されるであろうと、はっきり言えるのだろうか、といったようにです〕。
むしろ、わたしたちは、社会契約を、すでに存在している安定した統治を確かにするのに役立ち、またそれを確かなものにする信約と考えることができます。
〔社会契約の第2の考え方:〕
〔社会契約は、すでに存在している安定した統治を確かなものにする信約である〕
ホッブズの論点は、人間生活の通常の条件を仮定したとき、また国内の紛争と自然状態への崩壊といういつも現前する危険を仮定したとき、合理的なすべての人は、実効的な主権者を支持する十分な、また根本的な利益をもっているということです。そしてこの利益を仮定したとき、合理的なすべての人は、いざというときに社会契約に加わるであろう、ということなのです。
3-8
ここでわたしたちは、ホッブズの見方にもとづくと、実際の社会契約は存在する必要があるのか?、と問いかけてみましょう。
次のような仮説的な仕方で、つまり、
実効的な主権者をもつ既存の社会のすべての成員は、この主権者を権威づける〔主権者に授権する〕ための信約を結ぶのに十分な理由をもつであろう、等々、
と、いったように、社会契約について考えるだけで十分ではないのか。
この提案は、社会契約自体を自然状態と同じように、純粋に仮説的なものと見なしています。
〔社会契約を仮説的なものと見なす〕
つまり、それは、もし可能であるなら、わたしたちは、これを結ぶ十分な理由をもつで*あろう*信約である、といったようにです。
さて、たしかに、ホッブズは彼の社会契約の教義を明確には、このような仕方では表現していません。そして、彼が言っていないことを言ったとすることには用心深くあるべきです。
にもかかわらず、社会契約についてのこの仮説的な解釈は、ホッブズの見方にとって本質的なものを表現するのに十分であるかどうか、という問いを考えてみることはできるでしょう。
結局、社会契約は、このような仕方で理解されるとき、
社会的統合の概念を実際に提供し、どのようにして政治社会は一致団結しうるのか、
ひとたび実効的な主権者が存在すると、なぜ市民たちは現行の取り決めを支持することになるのか、等々
を、説明するのです。
それは、どのようにして政治社会がその諸部分から生成されうるか、は、説明しないかもしれないとしても、なぜそれはその諸部分に戻るように退行しないのか、を、説明するでしょう。
社会契約は、なぜ誰もが実効的な主権者を支持することに最も重要で根本的な関心をもつのか、を、示すための観点を提供します。
社会契約をこれらのような仕方で見るとき、ホッブズの目的にとってはこれで十分ではないでしょうか。
3-9
もちろん、このことはホッブズの目的が何であったかということにかかってきます。
私は、すべての人が自分たちの根本的な関心に反するものとして避けることを望むに違いない、内乱という最大の悪に対しては、強力で実効的な主権者 —— 主権者がもつべきとホッブズの考えるすべての権力をもつ主権者 —— が唯一の救済の方法であるという結論に、説得力のある哲学的議論を提供することを、ホッブズは意図したのではないかと思います。
ホッブズは、そうした主権者の存在が、国内の平和と和合への唯一の道を提供することを、わたしたちに納得させようと望んでいます。
そして、この結論を仮定すると、また基本的自然法は「平和を求めよ、そしてそれに従え」(『リヴァイアサン』第14章)というのであり、
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第14章「第一と第二の自然法について、および契約について」
pp.217-
《各人は自然的に、あらゆるものに対して権利をもつ》
人間の状態は、各人が各人に対する戦争の状態なのであり、この場合に各人は、彼自身の理性によって統治されていて、彼が利用しうるものごとで、彼の敵たちに対して、彼の生命を維持するのに、彼の助けになりえないものは、なにもないのであるから(訳注 1)、
(訳注 1)
別訳
「彼の敵たちに対して、彼の生命を維持するのに、彼のたすけになるもので、彼が利用してはならないものはなにもないのであるから」
しがたって、そういう状態においては、各人はあらゆるものに、相互の身体に対してさえ、権利をもつのである。
それだから、各人のあらゆるものに対するこの自然権が存続するかぎり、どんな人にとっても〔彼がいかに強力または賢明であるにしても〕、自然が通常、人びとに対して生きるのを許している時間を、生き抜くことについての保障はありえない。
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第14章「第一と第二の自然法について、および契約について」
pp.217-
《基本的自然法》
したがって、「各人は、平和を獲得する希望があるかぎり、それに向かって努力すべきであり、そして、彼がそれを獲得できたいときには、彼は戦争のあらゆる援助と利点を、求め、かつ利用していい」というのが、理性の戒律、すなわち一般法則である。
この規律の最初の部分の内容は、第一の、かつ基本的な自然法であり、それは
「平和をもとめ、それにしたがえ」
ということである。
第二の部分は、自然権の要約であって、それは「われわれが為しうるすべての手段によって、われわれ自身を防衛する」権利である。
第二の自然法は「〔わたしたちに対して〕他の人々がもつことを〔わたしたちが〕許すであろうと同じだけの自由を、他の人々に対してももつことで満足せよ」というものであると仮定すると、わたしたちは、すべての主権者の法に従う〔社会契約にもとづくのではない〕義務をもちます。
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第14章「第一と第二の自然法について、および契約について」
p.218
《第二の自然法》
人びとに平和への努力を命じるこの基本的自然法から、引き出されるのは、つぎの第二の法である。
「人は、平和と自己防衛のために彼が必要だと思うかぎり、他の人びともまたそうである場合には、すべてのものに対するこの権利を、進んで捨てるべきであり、他の人びとに対しては、かれらが彼自身に対してもつことを彼が許すであろうのと同じ大きさの、自由をもつことで満足すべきである。」
〈以下、略〉
ホッブズの考察の焦点は、彼の時代の争乱と内乱にあります。このことが直接に彼の懸念していることなのです。主権者に必要な権力についての理解と、根本的な関心にもとづく自然法についての明確な見方は、この状況に取り組むのを助けと彼は考えています。
この目的について言えば、純粋に仮説的な解釈がされるとき、ホッブズが自分の議論をなすのを可能にします。この目的について言えば、仮説的解釈が実際に十分であるように見えるのです。
3-10
〔社会契約の三つの解釈〕
要約しますと、社会契約には三つの可能な解釈があります。
第一の解釈
第一に、それは実際に起こったこと、および国家が実際に形成された仕方についての説明です。
これは、私が解釈するように、ホッブズの意図ではありません。
第二の解釈
第二の、それについての多くの証拠がテクストの中にあるもっとも妥当と思われる解釈は、
どのようにして国家は生じうるか、について、哲学的説明を与えることを試みている、というものです。
私は「生じうるか」、つまり〔起こったとしたら〕どのようにしてそれは起こりえたであろうか、と言い、どのようにしてそれは実際に起こったか、とは言っていません。
彼は、国家についての哲学的知識をわたしたちに与えることを望み、そのためにそれを諸部分に分解し、人間を心理学的に構成されているように描き、どのようにして自然状態は、偉大なるリヴァイアサン、すなわち国家のもとのでの人民の社会に変容させられうるのか、を、示したのです。
第三の解釈
私の示唆した第三の可能な解釈は次のようなものです。
偉大なるリヴァイアサンが、すでに存在していると想定してみましょう。そうすると、わたしたちは、自然状態を、もし実効的な主権者が実効的であるのを止めたとするなら起こりうるであろう、つねに存在する可能性と考えることになるでしょう。
その可能性を仮定すると、そしてまた、すべての人のもつ自己保存への根本的な関心、彼らの夫婦愛、便利な生活のための手段への欲求、と、彼の理解したもののことを考えると、
なぜすべての人は、偉大なるリヴァイアサン〔国家〕が存続し、実効的でありつづけることを欲する、十分で最優先の理由をもつのか、について〔ホッブズは〕説明しています。
〔なぜすべての人は、国家が存続し、実効的でありつづけることを欲する、十分で最優先の理由をもつのか、についての説明〕
この解釈に立つとホッブズは、現に存在する実効的な主権者を受け入れるように、わたしたちを説得しようと試みているのです。わたしたちはこの意図を、その時代の状況とか、イギリスの内乱に照らせば理解できます。
3-11
後ろの二つの解釈は、社会契約をどのように理解するかに関する提案です。
私はこれらの解釈を、少し躊躇しながら提案しています。私はけっして、これらの巻について、私が言っていることは正しいといって完全に満足しているわけではありません。これは非常に広大で複雑な考察であり、、それが読まれるときにはさまざまな読まれ方がありえます。わたしたちは、それがどのように理解されるべきかについてのあらゆる早急な説明に対しても、疑い深くなけれえばならないのです。
補遺B 「単純化 —— ホッブズに関する私の議論において、私は二つの単純化を提起する」
(私見:3つの補遺のなかでこの補遺が、最も本題に関連すると思われるので先に記述する)
〔編者: ロールズの1979年版のこの講義には、1983年版の講義からとられた第2節「ホッブズの世俗的道徳主義」を補う、次の議論が含まれていた〕
第2節 「ホッブズの世俗的道徳主義」 政治哲学史講義 ホッブズ講義 Ⅰ 「 ホッブズの世俗的道徳主義と社会契約の役割」#69f2e96f0000000000e9b6d3
「ホッブズの世俗的道徳体系」
無視されるいくつかの事柄
「神学的仮定」
「唯物論」〔唯物論の機械論的原理、いわゆる科学の方法〕
ホッブズの「世俗的な道徳体系」を、神学的仮定と機械論〔唯物論〕の諸原理に依存せず、本質的に独立したものとして論ずる
B1
B1-1
〔第一の単純化〕
第一に、ホッブズの〔社会契約構想としての〕政治哲学の本質的な形式的構造と内容は、その意味と解釈を自らの自然理性の正しい使用によって把握することのできる、合理的な人間に語りかけられている、と理解されうると仮定します。
〔ホッブズの政治哲学の構造と内容は、合理的な人間に向けて語りかけている〕
したがって、ホッブズの見解は、神学的ないし宗教的見解と対立する世俗的見解の内部において、その構造と内容に関して、完全に理解可能である、と想定します。
〔つまり、ホッブズの政治哲学の構造と内容は、神学的・宗教的見解なしに理解可能である〕
B1-2
こうして、政治的権威と義務に関するホッブズの説明は、根底においてわたしたちを支配する正しい権威をもつ神の法としての自然法に結びついているという、テイラー・ウォーリンダー・テーゼによって提起されたホッブズの解釈をめぐる論争的問題を、たいていの場合、脇に置いておくでしょう。(注釈 7)
(注釈 7)
Alfred Edward Taylor "The Ethical Doctrine of Hobbes."
https://en.wikipedia.org/wiki/Alfred_Edward_Taylor
1938年、テイラーは画期的な論文「ホッブズの倫理学」を発表した。スチュアート・ブラウンが指摘するように、この論文は「ホッブズの倫理理論は利己主義的心理とは論理的に独立しており、厳密な義務論である」という大胆なテーゼを提示した。
テイラー(1938)とブラウン(1959)はともに『ホッブズ研究』(1965)に再録された。義務論的観点は、テイラーの議論とは相違はあるものの、ハワード・ウォーレンダーが『ホッブズの政治哲学』 (1957)で展開した。
David Gauthier "The Logic of Leviathan: The Moral and Political Theory of Thomas Hobbes"
https://en.wikipedia.org/wiki/David_Gauthier
1986年の著書『合意による道徳』で展開された新ホッブズ主義的または契約主義的な道徳理論で最もよく知られています。
ゴーティエは道徳理論における体系的な研究に加え、政治哲学の歴史、特にトマス・ホッブズとジャン=ジャック・ルソーにも関心を持っていた。彼は実践的合理性の理論に関する研究を行い、カントやアリストテレスの先例からではなく、経済的合理性を理解しようとする試みから出発した。
B1-3
さて、ホッブズの政治哲学の世俗的性格について、私が意味しているのは、以下のことです。
(a) 主権者などについての、また権利と自由などについての、ホッブズの説明における定義と概念の形式的構造は、神学的構造から独立しています。この構造物は、それ自身の上に立ちうるのです。
自然権の定義として次のように言うことができます。
a は x を成す自然権を持つ =df a が x を成すことは、〔最初に、つまり権利を制限する出来事ないし活動に先立って〕正しい理性と一致する。 (注釈 8)
(注釈 8)
定義(definition)
論理学
"=df" は、標準的には、定義の上で等しいものを導入するのに用いられる。
それは、「 ※※を意味すると定義される」と理解されるべきである。
したがって上記のロールズの一節は、以下のように読める
〔a は x を成す自然権を持つ というのは a が x を成すことは、正しい理性と一致する。 と定義される。〕
(b) ホッブズの政治的構想とそれを支える彼の道徳哲学の実質的内容は同様に、神学的諸前提から独立しています。
この内容もまた、それ自身の上に立つことができ、人間性についてのホッブズの心理学的説明を仮定すれば、自然理性によって理解されることができます。
次のような自然権の実質的定義を考えてみましょう。
a は x を成す自然権を持つ =(実質的 df ) a が x を成すことは、 a の保存にとって有益ないし必要である〔と、 a によってまじめに信じられている〕
〔a は x を成す自然権を持つ というのは a が x を成すことは、 a の保存にとって有益ないし必要である〔と、 a によってまじめに信じられている〕 と実質的に定義される。〕
B1-4
しかしながら、ホッブズの見解が神学的教義によって補われることができない理由は、ただちには存在しません。しかし、もしそううした仮定が導入されるとすれば、次の二つの可能性が存在します。
第1のケース
これらの教義が形式的構造と実質的内容に付加されるときに引き出される結論は、世俗的体系のみから引き出される結論と、完全には合致しない。
もしこのケースが生じるなら、その体系の実質的条件は神学的教義から —— その語に相応しい強い意味において —— 独立ではなくなるでしょう。
(a) の命題はともかく、(b)の命題は修正が必要となるでしょう。
第2のケース
神学的教義が付加されるときに引き出される結論は、〔神学的諸前提なしの〕純粋に世俗的な体系と同一である。
このケースが生じるなら、 (a) と (b) の両方とも引き続き有効でしょう
B1-5
さて、重要な点は、ホッブズが第2のケースを受け容れていることです。
世俗的体系において引き出された結論は、社会において生きる人々の平和と和合のために、いかなる制度などが必要とされるかということに依拠しています。
神学的体系において結論は、平和と和合のために必要とされるもののみならず、人間の救済のために必要なものにもまた依存しています。
そこで、もし、社会における平和と和合のために必要なものが、救済のために必要なものと異なるならば、そのときにのみ、第1のケースが妥当性をもつことになるでしょう。
B1-6
ホッブズは、救済の必要条件を集団における人々の保存の条件と両立不可能にするような、いかなる神学的教義の真理も否定するであろうと私は信じます。
それらを両立不可能であると宣言するような宗教的見解は〔ホッブズの見方では〕迷信であり、そうしたものとして非合理的です。それは、事物の自然的原因についての真の知識を欠くことから生じる、理性を働かせることのない恐怖にもとづいているのです。
〔『リヴァイアサン』第12章 「宗教について」における、宗教の自然的種子に関する議論のすべてを参照〕
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第12章「宗教について」
pp.186-
《宗教の自然の種子である四つのものごと》
そして、幽霊についての意見、二次原因についての無知、人びとが恐怖するものへの帰依、および、偶然のものごとを前兆とおもうこと、の、これらの四つのことのなかに、宗教の自然の種子があり、それは、個々の人のさまざまな想像、判断、情念のために、ひとりの人が使用する諸儀式の大部分が、他の人には滑稽であるほどに、さまざまな儀式へと発展してきたのである。
《育成によってさまざまなものになった》
すなわち、これらの種子は、二種類の人びとによって、育成されてきた。
一つの種類の人びとは、それらを、彼ら自身の創意にしたがって、養い秩序づけた人びとである。他方の人びとは、神の命令と指示によって、そのことをしたのだが、双方の種類はともに、彼らに帰依する人びとを、服従、法、平和、慈恵、および市民社会に、それだけ相応しいものとするために、そのことをしたのである。
したがって、前の種類の宗教は、人間の政治 Humane Politiques の一部であり、地上の王たちがその臣民たちに要求する義務の一部分を教える。そして後の種類の宗教は、神の政治 Divine Politiques であり、神の王国の臣民となった人びとに対する、戒律を含んでいる。
異国人のコモンウェルスの創設者および立法者たちのすべては、前の種類に属し、アブラハム、モーシェ〔モーゼ〕およびわれわれの祝福された救世主は、後の種類に属するのであって、彼らによって神の王国の諸法が、われわれの間に導入されるのである。
B1-7
『リヴァイアサン』第1部の第12章においてホッブズは、
「人民を服従させ、平和にとどめておくことだけを目的とした、異邦人たちのコモンウェルスの最初の設立者たち、および立法者たち」が、いかに「法律のよって禁じられていることは神々を怒らせると信じられるようにする」のに気を配ったかを論じています。
〔『リヴァイアサン』第12章 「宗教について」〕
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第12章「宗教について」
pp.192-
《異教徒の宗教の創設者たちのもくろみ》
宗教を社会の平和と和合に必要な条件を強化するのに用いる、古代世界〔ギリシア人とローマ人〕のこのやり方を、ホッブズは是認していると想定するあらゆる理由が揃っています。この意味においてホッブズの教義は世俗的なのです。
〔崇拝としての自然法について次も参照 『リヴァイアサン』 第2巻 第31章〕
岩波文庫『リヴァイアサン』第2巻 第2部 「コモンウェルスについて」第31章「自然による王国について」
pp.192-
《神の諸法》
《尊敬と崇拝とは何か》
《尊敬のさまざまなしるし》
《自然的崇拝と恣意的崇拝》
《命令された崇拝と自由な崇拝》
《公共的崇拝と私的崇拝》
《崇拝の目的》
《神への崇拝の諸属性》
《神への尊敬のしるしである諸行為》
《公共的崇拝は、統一性のなかにある》
《すべての属性は市民法にもとづく》
B1-8
しかしながら、ホッブズは〔人が知りうるかぎり〕真摯で信仰をもつキリスト教徒であることを疑わないように注意しなければなりません。
彼の道徳的・政治的構想の世俗的な構造および内容と、両立不可能ではないように、彼のキリスト教を解釈すべきなのです。
結論として、ホッブズの説明の全秩序は、彼の教義の世俗的な構造と内容が基礎をなすと彼によってみなされていることを示唆しているように思えます。もし神学的前提が基本であるなら、彼は、それから出発したのではないかと思われます。
B1-9
合理的な人間に向けられているものとしてのホッブズの見解に焦点を合わせることが、なぜ正しいように思われるのか、といったことについては、ここまでとしましょう。
B2
B2-1
第二の単純化〔これについては手短にします〕は、
〔おそらく〕『リヴァイアサン』における〔および、他の政治的著作における〕ホッブズの方法を、自然のはたらきについての一般的な機械論的教義の道徳・政治構想への適用として解釈することができるということです。
〔ホッブズの方法を、機械論的教義の、道徳・政治構想への適用として解釈する〕
ホッブズはしばしば、〔一般的な方法においてのみならず、その第一諸原理においても統一された〕一つの統一された科学を考えだそうと試みたとみなされています。
B2-2
そこで、彼は〔ある機械論的な仕方で説明される〕物体 bodies とその運動一般の研究からはじめ、次いで、特定の種類の物体 —— 個々の人間の身体 body —— を取り上げ、最後に人工的身体、つまり人間によって創造される市民政府の研究までやっている、と解釈できるでしょう。それらの政府は、人間の技巧の成果です。リヴァイアサンは、人間の技巧を凝らしたコモンウェルスなのです。
B2-3
人工的身体 —— コモンウェルスや市民政府など —— を研究するとき、ホッブズの方法は、彼が人間〔諸能力や欲求などをもつ個人〕としてとらえるこれらの身体の諸器官〔諸部分〕を見ることです。
『市民論』において、すべての事物はそれを構成する諸原因によって最もよく理解できると彼は述べ、その主張を例証するのに、とくに時計について、そのさまざまな部分がどのように組み立てられ、どのように機械的に動くかを把握することによって、理解することに言及しています。
同様に、コモンウェルスを理解するためには、それを実際に分解する必要はなく〔というのも、それはほとんど可能ではなく、あるいはあまりに大きな犠牲をはらって初めてなされうるからです〕、あたかもそれが解体されたかのように、つまり、自然状態として考察すべきなのです。
〔コモンウェルスが解体されたものとしての自然状態〕
B2-4
つまり、人間の特徴が何であるのか、またこれらの特徴〔資質など〕がどのような仕方で、人々を市民政府に相応しいものにするとともに、また相応しくないものにするのか、について、わたしたちは理解したいのです。
また、もし、しっかりした基礎をもつ国家になるという人々の意図が実現されなければならないとすれば、どのように人々は自分たちの間で合意しなければならないのか、を理解したいのです。
B2-5
ホッブズの哲学のその他の部分については、また、彼の道徳哲学・政治哲学がどこまで彼の全体としての形而上学に適合しているかについては、私は、ほとんど脇へ置くでしょう。
補遺A 「自然状態を不安定にする人間性の特徴(ハンドアウト)」
(私見: ハンドアウト)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ハンドアウト
講義や講演で聴衆に配布しておく事前資料のこと。講義の内容を補足するテキストや、講義内容の出典などが記される。日本の教育機関で教師が生徒に配るハンドアウトはプリントと呼ばれることがある。
A1. 二つの序言
A1-1
私は『リヴァイアサン』のみを論じ、ホッブズの他の著作については論じないであろう。そして、この著作で提示されるホッブズの社会契約の教義は、いかなる神学的、ないし宗教的見解からも切り離して完全に理解されうると仮定する。
ホッブズの教義の形式的構造も、実質的内容も、いずれもこれらの背景的観念によって影響されない。
もちろん、このことには異論があるが、この点は論じない。あなた方は〔『リヴァイアサン』の〕第12章と第31章を注意深く考慮すべきである。
(私見:『リヴァイアサン』の〕第12章と第31章)
第1部 「人間について」
第12章 「宗教について」
第2部 「コモンウェルスについて」
第31章 「自然による神の王国について」
A1-2
私はまた、ホッブズの唯物論と彼の他の形而上学的テーゼを脇に置いておくであろう。
〔ときに、言及することによって、彼の社会契約とそれらがどのようにまとめられるかを明瞭にするのに役立つ場合を除いて〕
A2. ホッブズにおいて自然状態をとらえる二つの方法
A2-1
最初に、ホッブズの見方では、実効的な主権者ならばもつ必要のあるすべての権力をもった、実効的な政治的権威〔すなわち主権者〕が、もし存在しないならば、生じてくることになるであろう状況の状態として。
A2-2
社会で人が仮定するであろう〔状況の観点〕、またそこから、なぜ各人が〔ホッブズがこの主権者をそのように描いている〕実効的な主権者を打ち立てるように他のすべての人と信約することが合理的であるのか、を理解することができる、一つの観点として。
この意味において、社会契約は集合的に合理的である。
人間性の永遠の〔そしてそのように現在の〕特徴を反映する状態である自然状態の観点から、社会の各メンバーはいま、実効的な主権者が存在しつづけ、そしてそれによって既存の諸制度の安定性と存続可能性を確かなものにすることを望む十分な理由をもつのである。
A3. 人間性のなかの不安定化をもたらす特徴〔自然状態とともに考えたときの〕
A3-1
人間は、自然の才能と〔賢慮を含む〕精神的力において十分に平等であり、また同じく十分に互いの敵意に傷つきやすく、〔それらが互いの間に〕恐怖と不安を生じさせる。(『リヴァイアサン』第13章)
A3-2
人間の欲求と必要というものは、それらをみたす手段の希少性と一緒になって、人々をして自らが他人との競争におかれているのを見出さざるをえなくする。(『リヴァイアサン』第13章)
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第13章「人間の至福と悲惨に関するかれらの自然状態について」
pp.207-208
見出しより
《人びとは生まれながら平等である》
〈略〉
《平等から不信が生じる》
能力のこの平等から、われわれの目的を達成することについての、希望の平等が生じる。したがって、もしだれか二人が同一のものごとを意欲し、それにもかかわらず、二人がともにそれを享受することができないとすると、彼らは互いに敵となる。
〈略〉
《不信から戦争が生じる》
〈略〉
A3-3
人間の真理はさまざなな仕方で自己中心的で、自己に関心を集中させる。そして、人々は注意深く考えるとき、みな、自分自身の保存と安全に優先順位を与え、便利な生活のための手段を獲得しようとする。
A3-4
人間はいくつかの点で、社会における平和な結びつきに向いていない。
1. 彼らは、他人との結びつきが生じさせる非合理的な誇りや虚栄心に陥りやすい。非合理的であるのは、この傾向がしばしば、正しい理性の原理〔自然法〕に反して行動するように彼らを駆り立て、自分自身にとっても他の人々にとっても、きわめて危険な行為へと彼らをそそのかすのである。
2. 彼らは、結びつきのための根源的、ないし自然的な欲求、あるいは自然的な形態の仲間意識をもたないように見える。他方でホッブズは、わたしたちに敵意があるとは考えない。つまり他者の災難をそれ自体として楽しむとは考えていないのである。
A3-5
人間の推論の欠陥と陥穽かんせい
1. 適切な哲学的〔科学的〕方法の欠如から生じる欠陥(『リヴァイアサン』第5章)。ここでスコラ哲学者たち〔スコラ学派を経由したアリストテレス〕に対するホッブズの批判に言及
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第5章 「推理と科学について」
pp.84-
見出しより
《推理 reason とは何か》
《推理の定義》
《正しい推理はどこにあるか》
《推理の効用》
《誤謬と背理について》
《背理の諸原因 1-7》
《科学》
《慎慮と学識、およびそれらの相異》
《科学のしるし》
2. おそらく適切な哲学が知られているときでさえ、誇りと虚栄心によって歪められ、定まらないままになるという人間の推論の陥穽かんせい。(『リヴァイアサン』第17章)
岩波文庫『リヴァイアサン』第2巻 第2部 「人間について」第5章 「コモンウェルスについて」 第17章 「コモンウェルスの諸原因、発生、定義について」
pp.27-
見出しより
《コモンウェルスの目的、すなわち諸個人の安全保障》
《それは自然の法によって得られるものではない》
3. 集団における人間の行動と適切な社会制度に実践理性が関わるときの、その本性的な脆弱さ。
この形態の実践理性が脆弱であるのは、それに規約主義的基礎が付与されるべきである、と、ホッブズは考えるがゆえである。すなわち、誰もが、何が共通善であるかを誰が決定すべきかに合意し、そして誰もが、この人の判断に従わなければならない。
理性の行使によって、何が善であり悪であるのか、あるいは共通善のためなのか、について、まったく自由に認識し、またこの認識に従うという可能性は存在しない。共通善のための社会的協働は、実効的な主権者を必要とする。
補遺C 「寛大な本性の理念に関連した箇所」
(私見: 参照ページがヘッド版のページ数のため、参照できないので省略する)
〈了〉